言い伝え
出石焼は、垂仁天皇時代に天日槍命が陶士を従えて但馬出石に到来し、永住の地と定め、衣食住に必要な食器類を焼いたことに始まったと伝えられています。
土焼(陶器)出石焼の始まり
現在の出石焼に直接結びつく窯業の始まりは、江戸時代後期天明4年(1784年)に伊豆屋弥左衛門が出石郡細見村に土焼窯を開設したことが通説となっています。
その後、藩の殖産援助もあり、経営は順調に進みましたが、窯場の焼失、不景気による販売の不振などで伊豆屋窯は経営が行き詰っていきました。
石焼(陶器)出石焼の始まり
現代の白磁で知られる出石磁器は、伝承では寛政元年(1789年)に二八屋陳(珍)左衛門が肥前の有田に赴き、磁器製造法を習得し、職人を出石に連れ帰って石焼きを計画したことが始まりとされています。しかし資金が乏しく連れ帰った有田職人は伊豆屋の土焼き職人になったといわれています。
他の記録では、同年に肥前平戸領木原村の石焼き職人兵左衛門が伊豆屋に滞在し、焼物に従事しました。このころ伊豆屋は土焼き事業が行き詰まっており、寛政5年(1793年)再度出石を訪れた兵左衛門が小谷(但東町)の原料を使って細見村桜尾の伊豆屋窯で磁器焼成に成功したのが出石の石焼きの始まりとされています。
藩窯の開設と原石の発見
寛政11年(1799年)兵太丸窯を藩有に切り替え、藩士林村右衛門を焼物方総取締役に任じて直営に踏み切りました。
このころ、城下の柿谷や鶏塚で有名な原石(磁器原料)が発見され、享和元年(1801年)に採石地に近い城東の谷山字大谷に窯を移し、林村右衛門を焼き物方見廻りに任じて磁器生産を開始しました。
この藩窯経営は、最初は生産面では直営、製品の販売は市中の茜屋(森島)善右衛門に委任されていましたが、文政の初めごろには直営工場を含めた焼物業全般を茜屋に委託し、民間委託経営に切り替わりました。
その後は最終的に藩工場を茜屋と和泉屋に折半して払い下げ、それぞれが独立して経営することになりました。
民間諸窯の興隆
窯業を重視する藩の殖産興業政策もあって、天保期(1830~44年)を中心に民間諸窯が勃興しました。これらの諸窯は藩の焼き物業優遇措置のもとに、城下富商の資本投下による小規模な経営ではありましたが、藩窯(当時は委託経営)・七味屋・大黒屋の東窯軍と因幡屋・鹿児島屋の西窯群が盛んに活動し、出石焼の興隆期を迎えました。その後、昭和期まで、この地に諸窯が興亡することになりました。
出石焼の停滞
第一次世界大戦の戦後不況、昭和2年(1927年)の金融恐慌、新しい容器への転換などにより昭和に入り生産額が落ちてきました。
この停滞状況を打開するために、出石町は熱心な業者、川北・永沢の二者に補助金を出し、皇太子殿下御成婚記念博覧会への出品を支援したり、大正15年には県の後援を得て第1回出石焼意匠競技会を開催するなどしましたが、生産額を増加させることはできませんでした。
盈進社と出石焼の改良
江戸時代に開窯した出石焼の窯元の多くは幕末期で閉山し、明治の初年代に営業を続けていたのは大黒屋(武田)、泉屋(長谷)、茜屋(森島)の三山でした。
当時出石では藩士の失職、廃藩による衰勢を救うための事業を振興するする必要に迫られており、失職士族の授産と出石焼の改良発展を目指して明治9年(1876年)「盈進社」(えいしんしゃ)が設立されました。
医家の百瀬良岱らの尽力のもと町民有志から資金を集め、有志を糾合して出石町内町の藩米倉跡に窯と工場を新設し、盈進社と名づけました。(中国の古語「盈科而後進(あなにみちてのちにすすむ)に由来するという。)
盈進社の設立に伴い、肥前(佐賀県)有田村から鍋島藩窯の御細工人であった陶工柴田善平を招聘し、士族の子弟数十名を集めて伝習させました。
その成果は1年後には現れ、今までの出石には類例をみない絶妙精緻な作品を明治天皇の京都行幸時には上覧に供して白磁の花瓶を献上しました。同年中にフランスのパリ博覧会に出品、東京で開催された第1回内国勧業博覧会に盈進社作品を大量に出品するなど、一躍出石磁器の名声を天下にとどろかすことになりました。
その後、一般的な不景気に加え、経営資金の不足、高級品の販路の限界などで経営難に陥り、盈進社は明治18年(1885年)に廃業しました。
しかし、精細緻密と形態美を白磁に追求した盈進社技法は、その後の出石焼に大きな影響を与え、明治、大正、昭和に及んで生き続けていきました。
試験所の設置と出石焼の改良
明治32年(1899年)に県立陶磁器試験所が設立され、石川県から招聘された画工友田安清が白磁彫刻等の美術品の制作を行い、白磁出石焼の名声を高めました。
試験所の主な業績は、第1に出石焼の素地を改良し、焼き欧州産に劣らぬ白色を得ることができたこと、第2に銅版染付けの模様の改良、第3に耐火性粘土の発見と友田式徳利型窯の導入、第4に釉薬と焼成法の改良があげられます。
その成果として、明治35年(1902年)米国セントルイスで開催された万国博覧会において出石焼は金賞を受賞しました。
試験所でつくられる製品は美術品に偏り、高価で販売上困難なであったことや、指導技法の多くが大衆向けの実用品に応用する点が少なかったこと、各窯元の規模が小さく、輸出品などの大量の需要に対応できなかったことなどから、明治35年に「出石陶磁器改良株式会社」を設立し、試験所を併設して効果をあげようとしました。しかし、日露戦争を経て再起できず、明治39年(1906年)に会社も試験所も閉鎖されました。
その後の研究機関としては、昭和7年(1932年)に兵庫県工業試験場出石窯業作業所が開設され、組織変更などを経て、但馬工業指導所出石窯業場を最後に昭和43年(1968年)に廃止されました。
近年の出石焼
昭和55年(1980年)に国の伝統的工芸品に指定され、伝統技法の継承と産地振興への取り組みを行ってきましたが、生活様式の変化、後継者不足、原料の不足など産地のおかれている環境は年々厳しくなっています。
近年の出石焼の製品は、美術工芸品、贈答品、出石を訪れる観光客向けの土産品など主流となっています。
また、各種コンクールに出展するなど、作家活動が積極的に行われており、若手作家の育成のため、国内でも珍しい磁器に限定した公募展を実施してきました。
現在では、出石焼の伝統技法を活かしながら現代にあった作品を制作している窯元に加え、多用な技法の焼き物に挑戦する若手作家も出てきています。
【近年の動き】
- 1994年(平成6年)第1回出石トリエンナーレの開催(~第5回まで実施)
- 2007年(平成19年)出石藩夏まつり(出石焼風鈴制作)